Rays and Waves

tdswordsworksによる映画・音楽・アート・書籍などのレビューや鑑賞記録。

反復される度ごとに、身体のなかで新たに生まれるもの

模写をする者の目的は、本物と見まがうばかりの模作を作り出すことではなく、まねることによって学ぶことだろう。ここで学ぶとは、単にオリジナルにある技術を学ぶということではなく、そこから「何を学ぶべきか」を、学ぶということであろう。そのためにこそ、真似をする。だからこそ、自分の身体を使って、それを追体験する必要がある。

どのような作家、どのような作品においても、それは先行するいくつもの作家、作品の影響を受けている。先人たちによって積み重ねられた技術にまったく負うことのない作品など、あり得ない。もっとあけすけに言えば、どのような作家もいくつかの参照元を持つし、どのような作品にもいくつかの元ネタがある。しかし、そのような目に見えるかたちの影響関係を云々することに、大した意味があるとは思えない。あの作品からこの要素をもってきて、それをまた別の作品の形式にあてはめれば、このような作品になる、という風には作品は出来上がらない。確かに結果としての作品を見れば、そのように見えることもあるかもしれない。だがその「形」は、ある試行錯誤が行き着いた着地点としての形であって、形の内側で「動いているもの」は、それでは測ることが出来ない。

例えば、こういう風にも考えられるのではないか。野球選手が自分の苦手なコースの球を撃てるようになるために練習する時、そのコースが得意な他のバッターのフォームを真似るのは、ひとつの手であろう。(中略)現代の進歩した科学技術は、問題点の指摘(把握)をより的確に、迅速に導きだすのに役立つかもしれない。(例えば映像やコンピュータを使って野球のフォームをチェックするとか。)しかし、その問題点をどのようにして「克服するのか」は、それぞれの、一人ひとり異なる身体において見つけ出されるしかないはずだ。この時なされる努力は、明確な方向をもたない、不定形な努力としか言いようのないものだが、そこに、イメージとしての、あるいは予感としての「方向性」がある程度はみえていなければ、その不定形な努力そのものが可能ではなくなる。真似るお手本となる選手のフォームとはおそらく、その試行錯誤にある程度の方向性を与えてくれるような「導き」のイメージとして作用するのではないだろうか。

人は自らの身体の過程全てを意識的に把握し、それを操作することなど出来ないのだから、ある時はそれを「感じ=イメージ」として内側から大掴みに把握して操作したり、またある時は「形式」として外側からみることで、操作、修正したりするしかない。


我々が牛を描くとしたら、そのような生活との関係にもとづいた深さや、呪術的な意味の強さを望むことは出来ないとしても、牛の存在(量感)に驚き、その動きに魅了されて筆を動かすという点では、原始の人たちの描いたものの幾分かを反復しているのだと思う。目の前にあるものに驚き、魅了され、あるいは愛着を感じて、そのような感情と感覚に導かれて筆を動かすことによって描かれる絵は、美術史上の偉大な先人たちの作品におののくというのとは別の次元で作動する感覚によって導かれる。それは、過去に何遍も反復された、きわめてありふれた、凡庸なものであるかも知れないが、「私の身体」においては、今、ここであらたに現れた、新鮮で生々しい感覚なのだ。(中略)絵を描くことの普遍性は、芸術という概念によって保証される普遍性よりも、人が、川原でつい石を投げてしまうことや、天気のよい日にぶらっと遠回りしてしまうというようなことの「普遍性」と同じようなものに支えられるのではないだろうか。


(「風の旅人」2007年8月号p.137-140より部分抜粋 古谷利裕)